読売新聞 2003/04/03 [近代建築の灯]
ギャラリー・エフ=下
蔵が招いた人
◇台東区雷門
(無断での転載、引用はご遠慮下さい)
カフェバー併設のギャラリーとして生まれ変わる前の一九九六年四月、土蔵の入り口には「土地売ります」の紙が無造作に張られていた。蔵にあった古い家具や火鉢、旧式のタイプライターなどは、値札を付けて歩道に並べられた。翌月には、三社祭のみこしが最後のはなむけのように、威勢よく目の前の江戸通りを練って行った。
以前は、現在のオーナー、村守恵子さん(57)の父が、金属取引会社を経営し、材木商の「竹屋」から買い取った蔵を倉庫に、その前のビルを事務所に使っていた。その父が亡くなり、相続税の支払いや会社の負債整理で、土地を処分する必要があったのだ。幸か不幸か買い手はつかず、夏ごろには会社を存続させることで金銭問題は解決した。
蔵はこのあたりから息を吹き返す。
村守さんが依頼した台東区文化財保護審議会による調査で、二階の梁(はり)を覆っていた板を外すと、創建を記した「慶応四年(一八六八年)」の墨書きが出てきた。蔵が目覚めたかのごとき瞬間に、村守さんらは鳥肌の立つ思いを経験し、「なんとか残せないか」と気持ちが傾いていった。
偶然は重なる。居酒屋で村守さんの隣にたまたま座った若い漆作家が、学生ボランティアとともに修復を引き受け、腕利きの瓦職人、左官職人も手を貸してくれた。「蔵が人を引き寄せるようだった」という。
村守さんの長女、泉さん(32)は大工仕事を手伝いながら、「建物が生き残ろうとした」と感じた。演劇の世界にいた泉さんは、同世代のスタッフ二人とともにギャラリーの運営を受け持ち、これまでの六年間、写真、絵画、音楽など計八十五の企画を実現させた。「豆腐屋の個展」や海外のアーティストによる靴の展示もあった。「建物がよみがえった時と同じぐらいの興奮、ワクワクを与えてくれるもの」を表現したいと思っている。
先月下旬、戦災を生き延びた蔵のことを知ったおばあさんが立ち寄り、「東京大空襲の時は、松屋浅草の地下に逃げて助かったんですよ」と話していった。こうした出会いを通じ、泉さんは、時代を超えて訴えかける蔵の力も感じ取っている。 先月末、土蔵は鍛冶(かじ)職人の池上喬庸(たかのぶ)さん(79)、長男の喜幸(のぶゆき)さん(47)を迎えた。都内に残る鍛冶屋は数軒だけ。中でも鑿(のみ)、鉋(かんな)など大工刃物にかけては右に出る者がない。
二階の窓にはめ込まれた鉄格子を見た親子は、「文化文政(十九世紀初め)のものだね」と口をそろえた。梁の墨書きを見つけ、「慶応どころじゃない。鉄だけは前のものを生かして、建て直したんじゃないか」。確かに、材木商の施主は「三代目竹屋長四郎」といったから、先代の蔵があったとしても不思議はない。
村守さんが、「古い土壁を壊した時、長さ十センチほどのくぎが何本も出てきたのだけれど・・」と尋ねると、喜幸さんが「おやじ、これじゃないか」と人さし指をかぎ形に折り曲げた。土蔵破りがのこぎりをひいても、くぎで歯が止まるようになっている仕掛けだ。
鍛冶職人が扱う和鉄は、砂鉄を原料に伝統的なたたら製法で作られるもの。今は生産されておらず、古い寺社や蔵を解体した時に出る和くぎやちょうつがいなどを用いている。「見捨てられたかわいそうな蔵ばかりを見てきた」という池上さん親子。この日ばかりは、「大事にされ生きている蔵で、ゆったりとした心地よい雰囲気を楽しめた」と言葉を残した。
蔵はこれからも多くの訪問客を招き入れ、未知の表情を見せてくれるに違いない。
(文・加藤隆則)
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