読売新聞 2003/03/20 [近代建築の灯]
ギャラリー・エフ=上
戦跡となった蔵
◇台東区雷門

(無断での転載、引用はご遠慮下さい)


 浅草寺前「今半別館」のすき焼きで腹ごしらえをした後、気の利いたバーで飲み直そうということになった。雷門から吾妻橋のたもとを右に折れて少し先、ステンドグラスがはめ込まれた古い木のドアを押し開けた。若い女性が目立つ店内を進み、突き当たりを見上げ驚いた。そのまま土蔵につながり、分厚い観音扉がこちら向きに開いている。
  扉は、土を黒いしっくいで塗り固めた作りで、縦二メートル、横七十センチ、厚さは三十センチ近くある。よほど力をいれないと動かない代物だ。蔵は土台を石で積んだ二階建てで、広さは五メートル×四メートルほど。
 オーナーの村守恵子さん(56)に案内されて中に入ると、写真パネルが立てかけてある。一九四五年三月十九日、松屋浅草の屋上に立ち、隅田川から仲見世までを俯瞰(ふかん)した光景だ。その九日前、米軍爆撃機B29から焼夷(しょうい)弾の雨を浴びたばかりの町は、灰と化している。東京の下町地区を襲ったこの大空襲では約十万人が犠牲になり、人口が密集した浅草は、死者が一万四千人にのぼった。
 焼け野原の中に、ぽつんと残っている蔵が三棟。「ここに写っているのがこの蔵です」。村守さんがそのうちの一つを指さす。
 「祖母から聞いた話では、当時、すぐ蔵を開けたら一気に酸素が入って爆発すると言われ、冷ますため二か月はそっとしておいたそうです」
 道路に沿って並ぶ電柱の脇には、もぐらの穴を思わせる盛り土のようなものが見える。「これなんだかわかります? 防空ごうだったそうですよ」。写真の左側には隅田川が横たわり、手前に吾妻橋、向こうに駒形橋が見える。川が退路を阻んだことが、被害を拡大させる一因になった。
 写真を眺めていると、時間が一気にさかのぼり、廃虚の現場に身を置いているような錯覚を起こす。いや応なしに、戦争を実感する場である。
 木組みの階段で二階に上がった。太い松を渡した梁(はり)の下に、
 慶応四戊辰年八月吉日
 三代目竹屋長四郎
 妻 い勢
 忰(せがれ) 小三郎
 と創建の銘が墨書きされている。「戊辰年」とは戊辰戦争の起きた一八六八年。その年の五月には、政府軍に追われた彰義隊が上野の山で無残な最期を遂げた。近世の幕引き、産声を上げた近代をも、この蔵は見ている。
 「竹屋」の名が示すように、当時、このあたりは材木町と呼ばれ、竹や材木の問屋が軒を連ねていた。一九二三年(大正十二年)の関東大震災で一帯が壊滅状態になった中でも、蔵は生き延びた。
 震災後、神田で金属の取引をしていた村守さんの祖父が倉庫として蔵を借り受け、二男に当たる村守さんの父が戦後、蔵の前に鉄骨二階建ての社屋を建てて土地ともども買い取った。父が亡くなった後の九七年からは、妹や長女、長男らと話し合い、車庫だった一階部分をカフェバー、蔵をギャラリーに模様替えさせた。
 すぐ隣で履物店を営む長谷川浩さん(72)は、蔵で漫画本を読んだりして遊んだことを覚えている。大空襲は疎開先の千葉にいて難を逃れた。「終戦後に戻ったら家はなく、残っていた隣の蔵も塀が焼けて、土がぼろぼろになっていた。しばらくは、会社の従業員夫妻が蔵で生活していましたよ」。バラックが立ち並んでいた時代の話である。
 パネル写真は村守さんがギャラリーオープンに合わせ、作家で東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元さん(70)から提供を受けた。何度かコーヒーを飲みに立ち寄っている早乙女さんは、焼け残った蔵を「戦跡のようなもの」と感じている。
 早乙女さんから写真と一緒に手渡された著書「写真版東京大空襲の記録」(新潮文庫)には、「平和をあしたに」とサインがあった。「若い人たちに戦争の歴史を伝える場所として生かしたい」と村守さんは思っている。

(文・加藤隆則)


[近代建築の灯]
ギャラリー・エフ=中 へ
ギャラリー・エフ=下 へ

BACK