読売新聞 2003/03/27 [近代建築の灯]
ギャラリー・エフ=中
仕事きっちり 土壁、瓦
◇台東区雷門(無断での転載、引用はご遠慮下さい)
東京大空襲をくぐった土蔵は戦後、傷んだ外壁を隠すためトタン板で覆われた。六年前、ギャラリーにするための修復工事で、半世紀ぶりにそのトタンがはずされた。左官職人の加藤信吾さん(70)は、土壁が所々はがれ、ひび割れ、さらに、赤く変色しているのを目にした。戦火の跡だった。
「土は強い火に焼かれると、三―五センチの厚さまで赤くなってもろくなる。それにしてもよく持ったよ。大変なものだ」。加藤さんの言葉は蔵ばかりでなく、それを建てた職人にも向けられている。
土壁は下地に太い木が組まれており、厚さは約三十センチ。その上に漆喰(しっくい)が何層も塗られていた。「今の漆喰は、工場で化学製品のノリを入れて大量生産される。昔は職人がかまどで海藻を炊き、石灰に混ぜて調合していた。こっちの方が長持ちする」という。
かつての製法はもう文化財などにしか使われない。調合のできる職人は全国でもごくわずか。加藤さんはその貴重な一人として、神田駿河台のニコライ堂や皇居・大手門の修復など大きな仕事を引き受けてきた。
「お役所は調合法を表にしてくれと言うけれど、材料は自然のものだから、かき回して粘り具合をみないとわからない。こればかりは経験がないと。私はおやじの下で三年、コテも持たせてもらえず、毎日材料作りを覚えさせられた」
強い東北なまりがある。生まれは秋田県雄勝町。祖父の代から左官業で、七人きょうだいの五男として生まれた。兄たちとともに父親の見習いをしていたが、東京五輪を翌年に控えた一九六三年(昭和三十八年)、三十歳で上京。あちこちにビルの建設現場があり、セメント工事の仕事がいくらでもあった。そして迎えた七三年の石油危機。「仕事がおかしくなった」
そのころ、知り合いの建築学者に「文化財や寺の修復は結構あるからやってみないか」と京都や奈良に連れていかれ、その気になった。本人に言わせれば「昔の泥仕事に戻った」わけだ。仲間の目は冷ややかだったが、今や土壁は自然素材として見直され、大学卒の女性が二人も門をたたいてくる時代になった。
加藤さんの耳に残っている父の説教が実にいい。
「職人は道具箱一つ抱えて全国を歩く。どこへ行ってもまじめに仕事さえしていれば、だれかが見ていてくれる。それで食っていける。金もうけはおまえの頭じゃ無理だから、得意な人に任せておけ」
値千金の響きがある。
蔵の修復にかかわった職人がもう一人。あばら家のようだった屋根瓦(がわら)は、加藤さんの声掛けで、板橋区の藤井禎夫(さだお)さん(45)が六分の一ほどを葺(ふ)き替えた。鬼瓦の下にある屋号の「竹」あたりが、やはり赤くなっていた。「1000度ぐらいで焼かれた跡だね」。ここにも戦争は刻まれていた。
藤井さんが瓦を何枚かめくってわかったことがある。蔵自体は江戸末期のものだが、瓦だけは、昭和初期ごろに葺き替えられているというのだ。
「第一に、江戸時代であれば土に瓦をはり付けただけだが、漆喰で桟を作りそこに引っかけていく工法が取られている。これは一九二三年(大正十二年)の関東大震災後、行政の指導で広まったもの。それに、産地を示す刻印が『三州』(三河)『尾州』(尾張)となっている。江戸期なら、当時は瓦町があったぐらいだから、地元の瓦を使っているはず」
推理小説の謎解きを思わせるあざやかさ。藤井さんも多くの文化財修復を手がけてきた。その目があればこそだ。
「葺き師」とも呼ばれる瓦職人は、窯元の指紋がついた瓦を一枚一枚ためつすがめつしながら、美しく見せる傾き加減に身を砕く。「繊細な気配りが感じられ、かなり腕のいい職人だ」。藤井さんにとっては、その先人の感覚をたどりながらの作業だった。
土壁はワラをつなぎに使った土佐漆喰でよみがえり、屋根は特注の瓦で見事に新旧を調和させた。ビルの谷間にすっぽり埋もれた土蔵だが、二人の名工によって、名も無き職人たちの息吹がしっかりとこだまして聞こえてくる。(文・加藤隆則)
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