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 あなたの作品は、絵画や切り絵、オブジェ、そして映像作品など多岐に渡っています。アーティストになるまでに、どのような道のりを歩んで来ましたか?

 


 

 オランダでマスメディアを学んでから、ミラノの美術学校で装飾学を学びました。ブレラと呼ばれるこの学校では、絵画や彫刻、舞台デザイン、そして装飾を学ぶことができます。現在、イタリアの高等教育のシステムは急速に変化しています。学生は担当の教授(マエストロ)を選べます。選択の基準は、その教授がどのようなプログラムを組み、どれだけ他の教科も選ばせてくれるかという点です。
 私が装飾学を選んだのは、絵画や彫刻のコースよりもずっと自由だったからです。この装飾学のなかでも、自分を高めるために必要な勉強や課題に取り組ませてくれる教授を選びました。最終的に、私は絵画と彫刻の中間のような勉強をすることができました。正確な意味のインスタレーションではないのですが、限りなくそれに近いものです。
 でも私はスタートが遅かった。ブレラに入学したときは30歳でした。
 芸術にはずっと興味がありました。私は自分の青年期を1枚の大きな絵として思い出すことが好きです。ただ、そのころはどちらかと言えば、がむしゃらにがんばる環境で育ったし、素直に大学へ進みました。何かを議論する必要性も感じませんでした。
 芸術は、私の文化の一部であり、教育の一部でした。しかし、それで生計を立てようとは思いませんでした。それに初めて自分の道を決めたとき、私は17歳の内気な青年だったのです。だから、マスメディアを学び、十分にそれを楽しみました。
 今でもそうですが、当時は本当にたくさんの本を読み、人間の行動に関するテーマにとても関心を抱きました。とりわけ、人間の矛盾に興味がありました。人間は集団に属したいと思いながら、同時に、個人として独立していたいと願うのです。この点については、また後でお話しましょう。
 卒業後、広告業界で何年か働きました。仕事は好きでしたが、何かが足りなかった。しばらくすると、何か限界のようなものを感じ始めました。そして、少しイライラもしていた。商業的なコミュニケーションで求められる創造性は、きわめて直接的で、私はもっと自由なことがしたかった。表現においてだけでなく、自由そのものを欲していた。
 だから、休みのときに絵を描くようになった。それはとても楽しく、満足感を得ることができ、いかに自分にとって大切なものかを再認識しました。だからゼロから再出発することを決断し、すべてのモノを捨て、芸術を学ぶことにしました。


wall paper private home, 2002


disneyfication drawings, 2003


 この時期、私はイタリア人のパートナーと出会いました。すべてのモノを売り、イタリアへ移住しました。私にとっては、とても幸運な組み合わせでした。まぁ、こう話すととても実際よりもロマンティックに聞こえてしまいますが。 どこかへ行ってしまうことが私には必要でした。広告業界で自分が残りの人生を生き続けることをイメージできなかった。
 パートナーに出会ったことは幸運の一つでした。まさに絶好のタイミングで、それも偶然にね。その出会いは、私自身が人生にとって本当にしたいことを追い求めるための、心地よい理由を私にもたらしてくれたとも言えますね。

 

 

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