ヨーゼフ・ベルンハルトの「シンダトリ」をめぐって
大越久子

 


 

 今回出版されるヨーゼフ・ベルンハルトの作品集の主役は鳥である。そのなかの「鳥のディフェンス」シリーズ(2003年)には、彼が埼玉の100円ショップでみつけた作り物の黒い鳥が使われている。この鳥はおそらく、集合住宅のベランダを汚す鳩をふせぐためのものだ。偽のカラスで鳩を寄せつけないようにするのだが、あいにく効果のほどは知らない。

 2005年までの数回にわたる日本滞在中、彼はそのほかにも、流行の六本木ヒルズに落ちていたカラスの羽や白い糞、伝統文化の都・京都で起きたサーズ感染、そして糞にまみれた繁華街の看板やその影で冷たくなった鳥にも眼を向けてきた。ダンボールで携帯巣箱をつくり、それをショッピングセンターのおしゃれな服や靴にまじってさりげなく置くこともした。

 だが私にとって最も興味深いテーマは、これらすべてのシリーズの発端になった「シンダトリ」である。2001年の来日のおり、彼は駅近くのふきだまりにひっそりと横たわるカラスや鳩を撮影して歩いた。私がこの作品群に惹かれるのは、なによりもヨーゼフが日本で最初に発見した主題であり、それが私のような普通の日本人を混乱させるからである。

 日本の街から野良猫や野良犬が姿を消して久しい。野良たちは公衆衛生を理由に駆逐されてしまったが、カラスや鳩は住民に歓迎されていないにもかかわらず元気に生き続けている。上海から来日した若い女性が、日本のカラスに驚いたという新聞記事を読んだ。上海ではめったにカラスに出会うことがない。その姿を見たり鳴き声を聞いたりすると、その日は何か悪いことが起きるという迷信があるため、彼女たちは毎朝登場するカラスにひどく困惑したという。日本にもカラスの鳴き声は縁起が悪いという言い伝えがあるが、それは中国から伝わったのかもしれない。

 人間はふつう、食べるために生き物を殺す。だから日本では、カラスたちはそのような死を免れ、なんらかのかたちで最期を迎えているはずである。しかし、ほとんどの人はその死のかたちを知らないし、知ろうともしない。どうやら鳥たちの残骸は、人目に触れない早朝のうちに道路や公園の清掃員が片づけてしまうらしい。私はその事実をヨーゼフから聞いた。はじめて知った日本の生活の一面である。

 彼が撮影したビデオを見れば、街で生きる鳥の最期を知らないのが私だけでないことは明らかだ。あなたは「シンダトリ」についてどう思うかと、彼は道行く人たちに尋ねる。だが見知らぬ外国人に話しかけられた人はみな、その質問をすぐには理解しかねる。やがて彼がたどたどしく呪文のように唱える「シンダトリ」の意味を理解すると、とまどったり嫌悪の反応をみせる。このことから日本人は死の匂いを避けていると感じたヨーゼフは、死をオープンにする、つまりアートにする場をつくろうとして個展を開いた。そこに展示された鳥は、鱗でおおわれた脚や鋭いツメを宙につきだして硬直しており、神像かオブジェのようにみえた。むしろフロッタージュの絵具で汚されたものの方に、死の様相があらわれていたと思う。またインスタレーションに、アーティスト自身の写真が加わっていたのも印象的である。消え入りそうなプリントの向こうから、彼はまるで他人ごとのようにシンダトリを見ているが、どちらも消滅の途上にある点でつながっている。死骸や糞と同質のセルフポートレイトは滑稽でさえある。

 この展示をとおして彼は、前世の下等動物と同じ遺伝子を持っていることを認めたがらない日本人像を描き出そうとしたようだった。死や、ひるがえって生にまつわる作品を見ることは自分自身をみつめることにほかならないが、今の日本人にはその意識が欠落しているとみなしたのである。残骸を見る・残骸の型を遺すことを、日本語では文字通り「カタミ」と言い、無垢の死体は生死のサイクルを具体化していた。それにもかかわらず、多くの人が自分は輪廻の外にいるのだと通りすぎてしまった。残念ながら彼がかつて制作したインドとは異なり、期待されていた輪廻思想はもはや日本の日常生活とは縁遠いのである。ヨーゼフがこの個展で示したタブーとは、都会の人々にとって鳥の死は無用の問題だと明らかにしてしまったことにあるかもしれない。

 彼が示すこのような日本の局面は、どれも私には皮肉めいて感じられる。彼は、なんとうまく標的を見つけるのだろう。彼が来日のたびに発見するモチーフには、日本の近年の変化がそのままあらわれている。たとえば彼の滞在によって鳥たちは、死んだモノから安っぽいアイドルへと変容した。だがシンダトリもカワイイ玩具も、いわば清潔で快適な生活のイメージのひとつであり、同時に一種の暴力である。彼が感知し日本人が直視しないもののなかに、死という深い言葉や概念が稀薄になっていく過程が早回しで映しだされているかのようだ。さまざまな文化圏での制作や発表をとおして、ヨーゼフは死あるいは消滅についての哲学を克服しようとしているが、今のところもっとも手応えがなく、その分興味をそそる国が日本なのではないだろうか。

 発表に対する手応え、という側面からいえば、その手応えのなさの一因は彼の作風にもある。欧米でメジャーなスタイルを追う風潮が日本ではまだ根強い。だがヨーゼフが展示する理不尽な姿の動物たちは、良い意味でそれと隔たっている。目をそむけたくなるような代物は感情を揺さぶり、ときとして毛皮やガラスや革でこしらえた構築的なオブジェのように見える。彼らは自分の置かれた空間と緊密に結びついており、現代美術のいわゆる「皮膚感覚」がかもしだすような危うさやもろさにはない手触りを残していく。

ヨーゼフが探る消滅観が彼だけのものなのか、あるいはより広い場所や人々と共有できるものなのか、またそこに不足があるからこそより強く生を求めようとするものなのか、私は日本から見続けたいと思っている。

 


 

大越久子

日本東北部の岩手県に生まれる。1982年より埼玉県立近代美術館学芸員。「線の表現」(1991)、「ニッポンの諷刺」(1993)、「ジェームズ・タレル展」(1997)、「呼吸する風景」(1999)、「プラスチックの時代」(2000)、「椅子のデザイン−日本の〈座〉の誕生から未来へ」(2005)などの展覧会を手がけた。

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